こんにちは.高尾俊介(@takawo)です.このレポートはNFTアートのプロジェクト「Generativemasks(GMs)」に関連した活動について報告するシリーズの初回になります.
Generativemasks Reportについて
2021年8月17日「Generativemasks」は10,000点の作品をNFTとして0.1ETHで販売し,販売開始から2時間あまりで完売しました.取引ボリュームもですが,個人が制作したジェネラティブアートの作品がこのような結果を得たこと自体はセンセーショナルな出来事だと思います.一方で,話題性にばかり目が向けられプロジェクトの本質や僕自身が目指している目標が見えづらくなっているのではないか,という懸念は,販売開始から1ヶ月が経過し大きくなってきたところでした.また,実際の取組みなどについて個人で発信をしていくことには記録としても意味があると考え,この「Generativemasks Report」を書き始めました.
今回のレポートは初回なので少し丁寧に,自分のことやGMsのもとになった活動「デイリーコーディング」について紹介しようと思います.とはいえ,自分のバックグラウンドや取り組みが散らかっているからか,どこから/何を/どこまで話せば良いのかわからなくなってしまい,大変冗長なものになってしまいました.GMsとの遭遇までたどり着けませんでしたが,作品の詳細や,僕が取り組んでいる活動の進捗についても次回以降レポートで共有したいと思います.
あ,重要な点なので,これだけ先に報告だけ!GMsの僕にミッションである寄付活動へ向けて支援先の全ての関係者とやり取りを進めています.時期は少し先になりますが,日本の税制に従って適切に納税と寄付を行い,その明細を公開する予定です.また,一過性の寄付に終わらないような仕組みについても現在準備をしています.詳細はまた話せたら.
#WhoIsTakawo
僕は2021年現在,日本の兵庫県神戸市にある甲南女子大学の文学部メディア表現学科というところで教員をやっています.専門は表現のためのプログラミングであるクリエイティブコーディングです. またその他ではコンピュータグラフィックス,電子工作やFabなどの幅広い分野をニューメディアとして,それらに関する教育・研究を行っています.肩書としては「クリエイティブコーダー」と名乗ることにしています.そのことはプログラマでもアーティストでもない立ち位置に,特に最近しっくりくるなと感じています.現在は,大学での活動のほか,Processing Community Japanという団体の運営を担当していて,Processing Community Day Japan や オンラインイベント Processing Community Hangout Japanの企画をやっています.趣味はできないDTMを自分なりにやることです.
自分の主な活動は「デイリーコーディング」です.これは僕の造語で,定義は少し変化してきました.当初目指したところはシンプルに「毎日コードを書くことを続けよう」でしたが,現在は「生活や文化とコードを結びつける活動を続けよう」と人に伝えるようにしています.定義を変えた理由は,日々のコーディングを続けられている人と,続けるのが難しいひとや挫折してしまった人を分け隔てたくないこと,毎日続ける事よりも,プログラミングに触れてこなかった/これから始める全ての人たちへ向けて開かれた活動を目指すことこそが,この活動の本質だと今信じているからです.「コードを書くことや,書いたコードを通じて人々が交流すること」を普及させたいと考えています.
デイリーコーディング以前
大学時代は20年ちかく前のことになります.学部は筑波大学の比較文化学類というところで写真史に関する研究を,大学院では情報科学芸術大学院大学[IAMAS]でデジタル写真と映像に関する研究を行いました.
学部時代の僕の活動については,以下の記事で倉本大資 @qramoさんが当時の僕との関わりを交えつつ彼の視点からまとめてくださっています.なんだかものすごく美化されている気がします……が,そこはともかく,GMsやNFTアートについても説明がとてもわかり易いので,関心のある方はぜひ読んでみてください.彼は長年Scratchのコミュニティ運営に携わっていて,回り回って意外と近くで似た活動をしているのがなんだか不思議な感じです.
https://note.com/qramo/n/n25260b633521
大学卒業後,2006年に入学した大学院在学中には,まさにクリエイティブコーディングやフィジカルコンピューティング,デジタルファブリケーションといった,当時の先端テクノロジーとそれを用いた表現の一端を,学生同士や教員の活動を通じて大変近い距離で眺めることができました.この点は,自分の人生においてとても大きな影響がありました.僕自身がそれらの分野に自ら触れたいと思い,試みるようになったのは卒業後しばらく経ってからのことですが,あの経験と見聞が今の自分を支えていると思います.
大学院修了後から神戸で教員をするまでの約10年間は,Web系の制作会社で働いたり,大学の助手や大学院の研究員をやったり,出版社でものづくり関連のイベントを企画運営する仕事に就きました.大学院修了後は作品制作よりも,それを支援するようなコミュニティの運営や、教育の分野で自分の資質が活かせるのではと感じていたため,結果的にキャリアパスは大学と民間の間で行き来していて,特に30代は将来の身の振り方に悩んでいました.
そんな中で,クリエイティブコーディングを本当の意味で「開始した」時期はファイルが残っていて,2015年の1月1日からでした.当時33歳でした.このときからProcessing(現在は派生したp5.js)でコードを書くようになりました.始めた理由は,正直なところ「本当になんとなく」でした.年始に実家に帰省していて「一年の計は元旦にあり」だしな,そういえばN回の挫折を繰り返した後の,N+1度目の正直.Processing少し触ってみよう,くらいのノリです.それまでも,うまく続かなくて挫折する経験を少なくとも20回はやっていて,そこまでくると重い腰をあげるというよりは「さて,またくじけるときまで,何事もなかったかのようにやるか」みたいな心境でした.
当初のクリエイティブコーディングの取り組み方の基本は,リファレンスや書籍や動画を参考にして,なんとなく触ればOK,書きかけでも,エラーで先に進まなくても,中断してもいい.続かないよりは続いたほうが良いし,5分でも15分でも,1行でも10行でも,早起きや仕事の終わり,寝る前のちょっとした時間で少し触る.誰に期待も邪魔もされないし,僕からも伝えもしないような密やかで小さな活動を,当初から素朴に楽しんでいました.Processingではコードのことをスケッチと呼びますが「素描のようにコードも思うままに書いて良いんだよ」とコンピュータに言われているようで,自分の活動のありのままを肯定できました.具体的な成し遂げたい明確な目的も,名前すらない活動をしばらく続けながら,自分だけの箱庭のようなコードが日付のファイル名で少しずつ増えていくことを楽しんでいました.
始めた当時は,母校のIAMASで研究員をしながら,次の進路について考えていました.キャリアパスはぐにゃぐにゃで,専門も関心も雑多で定まらない自分を,ファイナルファンタジーのジョブで言えば赤魔道士のように感じていました.専門性をもった同年代の人たちが,これまで蓄積した知識や技能を背景に強力な白魔法,黒魔法を駆使して活躍する様子を眺めながら,なんだかコンプレックスを抱えていたようにも思います(今は赤魔道士であることに誇りを持っています!🧙).
ただ,このときに始めた活動を通じて,自分も強力な武器を手に入れることや,魔法が使えるようになることを目指して始めたかというと,そんなことはありませんでした.どちらかというと,デジタルアートとクリエイティブコーディングシーンの活況を横目に,圧倒的な完成度をもったビジュアル表現たちに率直に感嘆し称賛しながらも,率直に言えば,個人でその方向を目指すことはできそうもないと感じていました.「無理無理無理無理」と思っていました.
もちろん「上達したい」「プログラミングができるようになりたい」とは思っていましたが,同時に「どれだけやってもああいうイカツいのは作れなさそう」「ならば世の中の流れとは少し違う方向に進んだほうが良さそう」と感じていました.ただ,そこに確信をもっていたわけではなく,逆張りでした.当時は燻製にハマっていたこともあり,文字通りくすぶっていました.
2010年代は雑にくくると国内外でデジタルアート(当時はあまり言葉として使われなかったと思いますが,今は普通に言いますね)の認知と受容が急速に進んだ10年と言えます.プロジェクションマッピングをはじめとして,これまでディスプレイの中でしか息ができなかったデジタルイメージが,30/60fpsでリアルタイムに生成され実空間に生き生きと展開される.それが多くの一般の人たちの目にとまり魅了し,新しい鑑賞の対象として受容され始めたのがこの頃で,特に商業的な展開が盛んに行われ,それに伴い大規模化や高度化が進みました.
僕自身がProcessingでのクリエイティブコーディングを続けられた理由は,自分にとって「ちょうどよくできるようにハードルをさげた」からでしたが,OSに依存せずインストールが簡単で,アプリケーションを起動したらすぐコードが書き始められる.Processingの当時の時流から少しそれた「ちょうどよい」コンパクトさ,気軽さやJavaの朴訥さが,自分の隙間になんだかぴったり収まったような,そんな感覚でした.ツールに自己帰属感があったというか.
僕の人生のタイムラインで言えば,2014年に大学院修了後7年近く生活した東京を離れ,先ほど書いたようなデジタルアートの活況や社会がおぼろげながら目指すベクトルから距離をとれたことも大きかったような気がします.2013年に東京オリンピックの招致が決定し,開発と景気に色めき立つ街の様子は,文字通り所在なかった自分とって居心地が悪かったのも事実です.そんなわけで,僕の日々のコーディングが「なんとなく」はじまり,「ほどよく」続いた結果,「デイリーコーディング」になりました.それには多分に運の要素も大きかったと思います.ただ「何者でもない自分が何者かになるために」「ローカルから東京をひっくり返す」みたいなギラついた野心は微塵もなく(笑),むしろ心の安寧や救済,現実逃避の側面すらあるような活動だったような気がしています.気がつけば「細くても,薄くても,内容は短くても,息は長く」を目指すようになりました.
2015年頃の映像,今見ても楽しそう(笑)
もともと一人遊びが好きだったこともあって,朝夕夜のどこかでコードを書いて,いつしかそれが「なんとなく落ち着く」活動になりました.2017年から縁があり大学教員として神戸に移住してからも,コードを書く暮らしは続いてProcessingからp5.jsに移行したのはその頃でした.そうそう,p5.jsの良さはまた別のレポートで紹介できたらいいですね.僕はp5.jsの熱狂的なファンです.
デイリーコーディングをはじめよう
2019年からは,続けていた日々のコーディングをプライベートな活動からよりオープンなものにするために,OpenProcessingでコードを公開することと合わせてSNSで作ったものをシェアすることにしました.きっかけはProcessing Community Day Tokyo 2019のLTで,日々のプログラミングについて発表した際に様々な意見や好意的なフィードバックがもらえ,勇気が湧いたことでした.活動をよりオープンにすることで,もしかしたら何か新しい意味が発見できるのではと気づきました.
拙く短いコードでも,シェアすることで議論の材料になります.2019年の3月から始めた僕の「デイリーコーディング」は,この2年半の間で,SNS上で #dailycoding としてコードを介した交流の場になりました.日々作ったものをシェアして,コメントをもらったり,誰かが派生物を制作したり(CCライセンスで公開しているため多くのコードはクレジットをすれば改変OKです)情報交換する活動はソーシャルコーディングとも言える活動で,そこで技術的な成長も勿論ですが「日常とコードを結びつけて表現すること」の多様性と可能性について,実践を通じて考えを深めることができました.「takawoくんのデイリーコーディングってさ……」みたいな雑談がきっかけで,コードを書き続ける活動の解釈を再認識することもありましたし,海外のクリエイティブコーダーの方々とコードを通じて対話できたことも,自分の見識を広げる非常に実りある積み重ねだったなと思います.
予め何らかの目的を持ってコードを書くことと,真っ白のキャンバスの前に立って未だ像を結ばない何かを描きだしていくこと,具象と抽象,数学と文学,アルゴリズムと即興,ルールと逸脱,実行と編集,全てをジャグリングするように,まじめにふざけながらコードを書く/スケッチを描くことが僕にとってのクリエイティブコーディングであり,その行為がとても好きです.この活動をできるかぎり長く続けたいし,そこに埋もれた可能性を掘り起こして考えたいけれど,それは僕の手と時間だけでは足りない気がしています.そういった思いが,今回のGenerativemasksの活動につながっていきました.
おわりに
今日から大学の後期授業がスタートします.GMsは期せずして誕生した夏休みプロジェクトでもありました.今回のレポートは1日かけて頑張って書き進めたのですが,思いの外伝えたいことが溢れてしまってGenerativemasksにたどり着けませんでした.読み終えて,期待したものと違ったという方がいたらすみません.次回以降,GMsのきっかけになったコードや,NFTアートのプロジェクトを始めるきっかけ,寄付について書く予定です.
今回,僕としてはあまり表立って話してこなかった過去の事柄や,当時の抱えていた葛藤について言葉にすることで整理できました.月1くらいのペースでこういったレポートが書けたらと思っています.よかったらニュースレターの購読(Subscribe now)お願いします.
それではまた.ハッピーコーディング!